律令時代の「駅」は社交の場だった
今回は、古代日本の通信についてお話しします。
以前お話しした通り、律令時代の公文書は七道をインフラとした「駅制」 のもとで運ばれました。
駅制では、七道という各幹線道路に沿って駅家(やくか)を30里(約16キロメートル)ごとに設置することを基本としていました。駅家は、いまで言う「駅」に相当するものです。もちろん、険しい山岳地帯や馬の食事となる牧草がないところは16キロメートルごとという基準の例外が認められていたようです。
いまの駅はもちろん電車が停まるところですが、駅家は当時の主な交通手段だった「馬」を停める場所でした。「駅」という漢字が馬偏なのは、その名残なのでしょう。
七道のひとつである山陽道の駅家にあった施設は、中国の使節団、いわゆるVIPをもてなすために、とても豪華なものだったようです。発掘調査によって朱塗りの柱・白壁・瓦葺きだったと判明した建築物があります。当時としてはかなりゴージャスなものだったのでしょう。
この施設は、身分の高い人たちの宴会にも使われていたとされています。
駅家は、交通機関でもあり、情報が集まる場所でもあり、VIPをもてなす場、そしてお役人さんたちの社交の場でもあったのです
駅家の維持コストや、駅家を使うための資格証明、駅制の崩壊
駅家にはこのような施設が設けられ、なおかつ規模に応じて複数の馬が置かれていました。馬は、もちろん駅家の人たちが世話をしていました。
このような施設を維持するには、さぞかし莫大なコストがかかったのでしょう。
ところでこの莫大なコスト、どのように費用を捻出していたと思いますか?
有力な説としては、駅家専用の田んぼでつくられた稲を元本として貸し出して、そこからあがった利息で駅家を維持するためのコストを賄ったのではないかと言われています。
駅制自体はお上が考えた制度だったのですが、その制度を支える駅家は独立採算制だったということですね。
駅制において使われたのは「駅馬(はゆま)」と呼ばれた馬でしたが、この駅馬を使うためには「駅鈴(うまやのすず)」という資格証明を持っている必要がありました。身分の高い人ほど、たくさんの駅馬を使うことができたそうです。
この駅鈴の管理は厳格で、任務を終えて地元へ帰ったときには速やかに返却しなければならず、返却が遅れるとムチ打ちの刑や懲役刑が科せられたとのことです。 また、地域で内乱が起きると、駅鈴の争奪戦が行われたこともあるようです。
天皇の権威を帯びた万能の通行証という扱いであり、もしくは天皇からの賜りものとして意識されていたのではないかと言われています。
さて、この駅制ですが、10世紀頃には衰退していくことになりました。
中央集権国家の力が落ち、貴族や大寺院の私有地である荘園が台頭してきたことによって、ネットワークの分断が起こったことが理由のひとつです。
飛鳥時代から奈良時代、平安時代という三代にわたって情報通信の役割を果たした駅伝制も、律令体制の崩壊とともに消えていきました。
いつしか歴史は動き、制度も変わっていくのですね。
このコラムの参考文献、弊社代表取締役 玉原輝基の処女作
『古代から現代までを読み解く 通信の日本史』(かざひの文庫)
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