古代の通信インフラである「駅制」は聖徳太子の時代から
久々に、日本の「通信」の歴史について書こうと思います。
わたしは、日本の建国は「大宝律令」が定められた西暦701年(大宝元年)であると考えています。
ただ、まずは律令国家成立前から「通信」と言えるものは存在していたのです。今回は、そんなお話です。
わたしたちの重要な交通手段のひとつに、「電車」がありますね。目的地へ行くときには、電車に乗って最寄りの「駅」まで行き、あとは歩いたりバスに乗ったり…。
この「駅」という言葉の語源は、「早馬(はゆま)」というものだったという説があります。
早馬に乗った使いの人が、「駅家(やくか)」という施設で早馬を乗り継いで文書などを運んだ。この駅家が、のちに「駅」と呼ばれるようになったという説が有力です。
このような制度を「駅制」と呼びますが、この制度が整備されはじめたのは西暦645年の大化の改新以降とされています。でも、それ以前の聖徳太子の時代には、ある程度の体系がつくられていたそうです。
詳しい制度は解明されていませんが、『日本書紀』には、西暦592年に蘇我馬子による崇峻天皇の暗殺のニュースが朝廷のあった大和(いまの奈良県)から 筑紫(いまの福岡県)へ早馬で伝えられたという記述が残っています。
道がなければ馬は走れませんので、この時代にはすくなくとも大和と筑紫を結ぶ道がある程度整備されていたのでしょう。
タイムマシンがなければ正確なことはわかりませんが、電気も電波もない時代に人々がどんな手段で通信をしていたのか、想像してみるのも楽しくありませんか?
このコラムの参考文献、弊社代表取締役 玉原輝基の処女作『古代から現代までを読み解く 通信の日本史』(かざひの文庫)のリンクはこちら。