Warning: Invalid argument supplied for foreach() in /home/xs569570/kantuko.com/public_html/wp-content/themes/massive_tcd084/functions/menu.php on line 48

日本における「電信」のはじまり(2)

日本における電信の父、寺島宗則

今回も、日本の電信の話をさせていただきます。

前回登場した松木弘安こと寺島宗則は、「電信の父」と呼ばれています。 寺島氏は明治初期の外交の立役者として知られていますが、電信の分野において も功績を残しているのです。  特筆すべきは、日本最初の電信インフラである東京 横浜間の電信建設を推進 したこと、国際通信の分野でデンマークの「グレートノーザン電信会社」との交渉をまとめたことです。

寺島氏は1868年(明治元年)9月に、政府が東京 横浜間に電信線を設置することを建議して、彼自身もその推進役に就きました。この建議は閣議決定されて電信線の建設工事が進められ、1869年(明治2年) 月に2都市の間で電信の取り扱いが始まりました。建議から、じつに1年少々。非常に短期間で実現したのです。

でも、これはあくまでも国内線です。東京 横浜間ですから、目と鼻の距離であると言ってもいいでしょう。一方で世界に目を向けると、1858年にはイギリスとアメリカをつなぐ大西洋ケーブルが開通しているなど、すでに電信は世界を瞬時につなぐツールとしての地位を確立していました。富国強兵を目指す日本にとっては、早く国際間の電信ケーブルを引き込む必要があったのです。

グレートノーザン電信会社との交渉で一歩も退かなかった寺島宗則

じつは、幕末から明治維新にかけての時代、世界の列強各国は日本の通信権を 虎視眈々と狙っていました。電信の設置を他国に任せてしまえば、国の中枢を握 られたも同然であり、植民地にもなりかねない話なのです。  でも、当時の日本には、国際通信ケーブルを引き込む技術も資金もありません でした。そこで日本に国際ケーブル設置の話を持ち込んできたのが、デンマーク の「グレートノーザン電信会社(以下、大北社)」でした。この会社の背後には、 英国とロシアがいたとも言われています。

大北社は、交渉のなかで ・長崎、大阪、兵庫、横浜、函館といったすべての開港地への海底ケーブルの陸揚げ ・上記の開港地間を結ぶケーブルの建設と沿岸の測量権(瀬戸内海を通す)  などの要求をしてきました。国内を結ぶケーブルを握られてしまっては一大事 です。大北社との交渉は、悲壮なものだったでしょう。

それからは、寺島氏の必死の交渉の末、

・長崎 上海線、長崎 ウラジオストック線の2本を設置 ・海底ケーブルの陸揚げを長崎と横浜だけにしか認めなかった ・長崎と横浜の両港を結ぶ海底ケーブルの設置を認めたが、瀬戸内海を通過する

ことは拒否。国内の電信線が速やかに完成した際には、大北社による設置を見

合わせてもらった ・将来、この海底ケーブルを買収できることを認めさせた

といった結果となりました。陸揚げ地を絞ったこと、瀬戸内海ルートを認めなかったことこそが、寺島氏の大きな功績でしょう。

なぜなら、海底ケーブルの陸揚げ地を長崎と横浜に絞り、長崎と横浜とを結ぶケーブルを九州・四国の南方を通るルートにしたことで、大北社にとって時間とコストがかかることになったからです。

寺島氏は、国内通信の自国開発にこだわりました。「通信主権」という言葉が あります。簡単に言えば、自国の制度のもとで通信設備を建築して、サービスを 提供する権利です。  国内通信を外国に任せてしまえば、政府や日本企業の情報が他国に筒抜けに なってしまう危険があるなど、重大な問題となります。

この通信主権を守るため、日本政府は国内伝送路の完成を急ぎ、1873年4月に東京-長崎間の電報サービスを開始したのです。寺島氏は、当時の日本の技術力や経済力のなかで、最低限の条件を確保したのだと言えるでしょう。

大北社の国内進出を牽制するためにも、政府は通信線の建設を急ピッチで進め、わずか5~6年で北海道から九州までを結ぶ列島横断ルートが完成しました。当時を考えれば、このスピードは驚異的な速さだったと言えます。

かくして、日本の海底ケーブルはつながっていったのです。

このコラムの参考文献、弊社代表取締役 玉原輝基の処女作『古代から現代までを読み解く 通信の日本史』(かざひの文庫)のリンクはこちら

TOP
TOP