高水準だった、幕末の教育と文化
今回は、通信ではなく「教育」の話をします。とは言っても、江戸時代の教育についてです。
1603年から265年にも及んだ江戸幕府による統治が終わり、1868年3月には新政府が「五箇条の御誓文」を発布します。これは、諸外国の技術を取り入れて日本を近代国家へとつくり変えていく基本方針でした。
江戸を「東京」と改め、元号も「明治」と定めて、富国強兵を目指して殖産興業(西洋諸国に対抗するための近代化政策)に力を入れていくことになっていきます。
ここで見逃してはいけないのは、明治維新を契機として日本の近代化が急速に進められ、短期間で近代化に至った理由には、幕末の時点で日本の文化と教育が高い水準に達していたという背景があったからではないでしょうか。
外側だけを変えたとしても、それを支える「中身」がともなわなければ、短期間で諸外国と渡り合えるだけの国になることは不可能だったのかもしれません。
そこで、江戸時代にどのような教育が行われていたのかを説明しておきたいと思います。
「支配者」「指導者」にふさわしい教養を習う「藩校」
江戸時代は「士・農・工・商」の身分制が確立していて、とくに武家(士)と 庶民(農・工・商)は厳格に区別されていました。教育についても、武家の教育 と庶民の教育がそれぞれ成立していたのです。 江戸時代の武家は「支配者」であり、「指導者」でした。ですから、それにふさわしい教養を身につけるために「藩校(藩学)」という教育機関が設けられていました。藩主は、藩の統治のために自分の教養を高めようと、儒学者や兵学者を招いて講義をさせて、重要な家臣にも聴講させました。また、一般の藩士にも学問を奨励しました。
江戸幕府は儒学を学問の中心にしていて、なかでも朱子学を正統な学問として尊びました。中世の武家は、お寺で僧侶を師匠として学問を修めていましたが、 江戸時代の武家は城下に学校を設けて儒学者を師として学問を修めていたのです。これが藩校(藩学)です。
藩校は、江戸時代の中期以降に急速に普及して、二百数十校に達したと言います。各藩の藩校の模範になっていたのは、幕府が江戸に設けていた昌平坂学問所(昌平黌)でした。もともとは上野に設けられた学問所が湯島に移転し、孔子を祀る聖堂を建てたので湯島聖堂と呼ばれていました。これが、のちに「昌平坂学問所」もしくは「昌平黌」と呼ばれるようになったのです。各藩は昌平坂学問所にならって藩校を設立し、整備しました。教育の内容も 徐々に拡充して、幕末には洋学や西洋医学を科目に加えるものも多くなっています。
藩校のなかで有名なものには、尾張藩の明倫堂、会津藩の日新館、岡山藩の花 畠教揚、米沢藩の興譲館、佐賀藩の弘道館、和歌山藩の学習館、萩藩の明倫館、 仙台藩の養賢堂、熊本藩の時習館、薩摩藩の造士館、加賀藩の明倫堂、水戸藩の 弘道館などがあります。
藩校は廃藩置県のあとで廃止されましたが、明治時代に発布された学制における中等・高等学校の母体となりました。また、藩校で養成された人々が明治維新後の近代日本を建設する中心的な役割を果たすことになったのです。
江戸時代の教育を再評価しようという意見は、いろいろなところで耳にしますね。
「過去よりも現代のほうが、高水準」という先入観を一度傍に置いて、先人から学ぶ姿勢を持つことも、ときには必要かもしれません。
このコラムの参考文献、弊社代表取締役 玉原輝基の処女作
『古代から現代までを読み解く 通信の日本史』(かざひの文庫)
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