進められた「五街道」の整備
1603年の関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康が江戸に幕府を開き、以後 265年間、幕府中心の政治が行われるなかで、近世日本が築かれていきました。
この時代、農業生産の増加や各藩の奨励による地方の特産品の生産拡大、卸しや輸送の整備によって、一大消費地になった江戸や大阪にはさまざまな商品が集まりました。そして富が蓄積し、元禄や文化文政の文化が開花したのです。
江戸時代の政治・経済・文化の活動は、高度にネットワーク化された飛脚による情報伝達網によって支えられていたと言っても過言ではないでしょう。
徳川家康も織田信長や豊臣秀吉の交通政策を引き継いで、江戸を中心とした街道整備を急速に進めました。街道の整備は「通信ネットワーク」の形成も意味しており、幕藩体制の維持に欠かせないものになりました。
これは、それまでの京都中心の交通体系からの脱却を意味し、江戸時代に整備された街道は東京中心の近代日本の礎となったのです。
そのなかでとくに重要だったのは、
・江戸と京都を結ぶ「東海道」
・江戸と高崎、下諏訪、大津を結ぶ「中山道」
・江戸と宇都宮、日光を結ぶ「日光道中」
・宇都宮と白河を結ぶ「奥州道中」
・江戸と甲府、下諏訪を結ぶ「甲州道中」
の「五街道」と呼ばれるものでした。
江戸時代の交通・通信の根幹となった近世宿場制度
幕府は、伝馬(てんま)制の整備にも乗り出しました。徳川家康は1601年(慶長6年)に、公用の書札や荷物の運送のため、東海道に宿の間を人馬で継ぎ立てながら逓送(ていそう)する宿次(宿継)を定め、各宿に伝馬制度を設定したのです。
伝馬の利用には、将軍の朱印や老中などの証文が必要でした。 次には中山道に伝馬制が敷かれるなど、伝馬制は各街道に展開されていきました。
伝馬制度が整えられていくなかで、この伝馬制を支える宿場の機能も拡充されていきました。物資の輸送や宿泊などを仕切る問屋、それを補佐する年寄、荷物の差配をする人たちが任命されたのです。
宿場には幕府の役人や大名が宿泊する本陣、庶民のための旅籠などの宿泊施設が設けられました。
この制度は、もともとは幕府や大名の公用の通行に便宜を図るものでしたが、 民間の貨物や旅行者にもさまざまな形でサービスを提供しました。
公用通行のコストを賄うために、民間交通に対する独占的なサービスは不可欠なものであり、 主要な業務だったと言えます。
このように街道・伝馬制・宿場が一体的に整備されて近世宿場制度となり、江戸時代の交通・通信システムの根幹になったのです。
いまでも残る五街道。500年にも及ぶ街道に思いを馳せると、悠久の歴史を感じてノスタルジックな気持ちになりますね。
このコラムの参考文献、弊社代表取締役 玉原輝基の処女作
『古代から現代までを読み解く 通信の日本史』(かざひの文庫)
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