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江戸時代(3) 「大名飛脚」と「町飛脚」

諸大名がそれぞれに設けた「大名飛脚」

今回も、江戸時代の話です。飛脚のうち、大名飛脚と町飛脚についてお話しします。

大名飛脚は、諸大名が自身の国と江戸藩邸などとの間で通信を行うために、各藩が整えた飛脚システムの総称を言います。大名は幕府の継飛脚を使うことができなかったため、それぞれが独自の運営を行ったのです。

大名飛脚で有名なのは、尾張・紀州両徳川家の「七里飛脚」と呼ばれたものです。 ほぼ七里(約 キロメートル)ごとに継所を置いたため、このように呼ばれました。

書状を中継するところに常時要員を配置して七里飛脚のシステムを維持していくことは、当然ながら膨大な費用がかかるものでした。やがて運営が困難になり、次第に民間の飛脚問屋に委託されるようになっていったのです。

「幕府の継飛脚などに対する民間の飛脚」としての町飛脚

町飛脚は、1.幕府の継飛脚や大名飛脚に対する民間の飛脚の総称を指す場合と、2.江戸市中といった大都市のなかだけの手紙などを扱う飛脚を指す場合の2つがあります。

町飛脚のルーツは、「三度飛脚」というものです。三度飛脚は、大坂城などを警備する江戸からの単身赴任の旗本が、江戸の家族などに便りを出すためにつくった飛脚システムでした。江戸と大坂を月に三度往復したことから、このように呼ばれたのです。

この三度飛脚の業務を民間で請け負ったことが、町飛脚のはじまりでした。最初は公的な伝馬制度を利用するために、民間であることを隠していましたが、幕府の営業許可が出て、商人などの民間人の書状などを運ぶようになりました。

そして大坂、京都、江戸の飛脚問屋が中心となって、全国の飛脚ネットワークを形成していったのです。都市が有機的に結ばれて、大坂から仙台までの地域をカバーする飛脚の全国ネットワークが完成しました。

ドイツ人医師だったシーボルトや、イギリスの公司、使節団員などの手記では、わが国の飛脚が十分に機能していることを好意的に記されています。文明国の人から見ても、江戸の飛脚は高水準のレベルに映ったようです。

「大都市のなかだけの手紙などを扱う飛脚」としての町飛脚など

江戸や大坂などの大都市で市中だけを配達エリアとしていた町飛脚は、書状を入れた箱を担いで、棒の先には風鈴をつけて、それを鳴らしながら走ったので、「チリンチリンの町飛脚」と言われたそうです。

ほかにも、町飛脚に分類される飛脚がありました。

たとえば、江戸の吉原などの遊女が書く恋文を、風鈴をチリンチリン鳴らしながらではなくひっそりと届ける「文使い屋」と呼ばれる職業がありました。

特定分野の情報などを扱う飛脚もいろいろあり、これも、町飛脚として分類できるでしょう。大坂と江戸の飛脚問屋が協力して、二都の間で金銀を送る「金飛 脚」。これは、現金書留の原型と言えます。

当時大阪堂島のお米の基準相場表を米穀商人たちに報告した「米飛脚」、摂津、 河内、和泉、伊勢などで生産されていた菜種油や綿花油の相場を伝達していた「油飛脚」というものもありました。

このように江戸時代の飛脚は全国にネットワークを張り巡らせて、政治や経済を支える運輸・通信の一大インフラストラクチャーになっていました

幕末の動乱で江戸の宿駅制度は崩壊することになりますが、その枠組みを活かしながら、明治近代国家の運輸通信システムが築かれていったのです。

このコラムの参考文献、弊社代表取締役 玉原輝基の処女作『古代から現代までを読み解く 通信の日本史』(かざひの文庫)のリンクはこちら

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