タイタニックと無線通信
日本の歴史からは離れてしまいますが、無線電信の歴史を語るうえで見逃せない出来事があります。映画にもなった、タイタニック号の悲劇です。
1912年4月14日23時40分、濃霧のなかを航行するタイタニック号が巨大な氷山に接触。長さ メートルにわたって亀裂が生じました。翌4月15日0時15分、
遭難信号(CQD : Come Quick Danger、SOS : Save Our Souls)が無線で発せられたのです。
「SOS」はそのような言葉の短縮形だったのですね。
ちなみに「CQD」は、マルコーニ社が決めた遭難信号であり、「SOS」は 国際遭難信号です。
タイタニック号の周辺にいた船がこの信号を受信しましたが、大半は160キ ロメートル以上も離れた位置にいたため、すぐに救援に向かうことができません でした。 最初にカルパチア号という船が遭難場所へ到着したときには、すでにタイタニック号が1500名余りの乗客とともに沈んでから数時間経っていたと言います。
無線によって救われた命・伝えられた悲劇
このタイタニック号沈没について、無線通信が果たした役割と無線通信のあり
方がクローズアップされることになります。
1912年4月15日の1時20分、タイタニック号からの乗客救援などを知らせる無線電信を傍受した無線局から、無線や海底ケーブルを通じて短時間のうちにタイタニック号沈没のニュースが世界中に伝わりました。
後日ニューヨークタイムズは、
「無線電信によって745人の生命が救われた。魔法のような大気(電波の意) がなかったら、タイタニック号の悲劇は秘密に覆い隠されていた」
という旨の記事を掲載しています。
無線通信によって救われた生命があったこと、タイタニック号の悲劇が世界中に発信されたことは、無線通信が果たした大きな役割だったのでしょう。
制度があってこそ技術はより有効になる
その一方で、タイタニック号の悲劇をきっかけとして、無線通信のあり方が国
際的に議論されることになりました。
じつは、タイタニック号の近くを航行していたカリフォルニア号という小型客
船が事故の前に大きな氷山を見つけており、タイタニック号へ無線で連絡をして
注意を促していました。ところが、タイタニック号はマルコーニ社が建設した無
線局との交信に忙殺され、
「邪魔をしないでくれ」
と命じる始末。
その後カリフォルニア号の無線士は長時間の勤務に疲れ、眠ってしまいました。
事故が起きたのはそのすぐあとです。
この背景には、マルコーニ社の政策的なものがあったようです。
マルコーニ社製の無線電信機を扱う人は、それ以外のメーカーの無線機を使う人を見下して交信しない風潮がありました。小さな客船の無線を聞いていたならば、悲劇は避けられたのかもしれません。
タイタニック号の遭難から3ヵ月後、無線電信会議がロンドンで開催され、マルコーニ社は
「どの電信機であっても交信するよう指示した」
と発表しました。
大きな事故への反省から、運用方針を転換したのでしょう。
そして1914年には、船舶の安全確保や人命救助の諸原則を決めた「海上に おける人命の安全のための国際条約」、いわゆる「タイタニック条約」が成立。
この条約により、船の構造や救命設備、無線設備などについての国際基準が決定されました。 技術とそれを有効にするための制度、両方が必要だということでしょう。
もう、タイタニック号のような悲劇を繰り返してほしくはありませんね。
このコラムの参考文献、弊社代表取締役 玉原輝基の処女作『古代から現代までを読み解く 通信の日本史』(かざひの文庫)のリンクはこちら。