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鎌倉〜江戸時代初期の印刷事情を知る

鎌倉〜室町時代は、印刷技術は仏教寺院によって受け継がれた

今回は、武家政権となった鎌倉時代から室町時代、戦国時代、そして江戸時代の初期の印刷事情をお話しします。

鎌倉時代になると、当時の宋王朝で禅を学んだ僧侶が、宋の印刷文化を日本にもたらしました。京都五山を中心に禅僧が刊行する印刷物であった「五山版」が、鎌倉時代から室町時代までの出版・印刷文化を形づくったのです。この時代、寺院によって一枚板に図案を彫刻して摺る「整版印刷」の技術を用いて、経典や漢文学を複製した木版印刷物が盛んに生み出されました。

ほかにも、奈良の興福寺を中心につくられた「春日版」、和歌山高野山の「高 野版」、京都の五山や鎌倉の一部の「五山版」といったものがあげられます。印 刷は仏教との結びつきが強く、技術はあくまでも寺院によって受け継がれていま した。

2つのルートで入ってきた戦国時代〜江戸初期の活字印刷

中世では、 13世紀くらいの日本で一時的に活字印刷が使わていました。その後の武家政権時代の日本でも、数十年間ではありますが、活字印刷が登場した時期がありました。これは戦国時代から、江戸時代の初期にかけてのことです。

1543年、イエズス会の宣教師フランシスコ=ザビエルが種子島に漂着しました。そのときに鉄砲やキリスト教などが伝えられたのは有名ですが、そのなかには金属活字による印刷術もあったのです。

イエズス会の布教活動のために、1590年に印刷所が開設され、活字、インキ、紙、印刷機など、必要な資機材が持ち込まれました。これらの道具を使いこ なす専門の印刷工も来日しています。これが、グーテンベルクの技法が日本で実行されるきっかけとなりました。

このような経緯でつくられたのが、「キリシタン版」と呼ばれる印刷物の数々です。 その内容は宗教に限らず、語学や文学など幅広い分野に渡っていました。でも、 徳川幕府によるキリシタン禁制によって、極めて短命に終わってしまったのです。

ヨーロッパとは別に、朝鮮に攻め入った豊臣秀吉によって、金属活字が伝えられます。印刷のための機材一式とともに、印刷工も連れてきたと言われています。

キリシタン版とは違い、こちらは当時の権力者に認められて、16世紀の終わり頃には古文書研究の書物が出版されていたそうです。

銅活字の存在を知った日本でも、中国や朝鮮と同じように木活字が生み出されました。徳川家康が江戸に幕府を開いた1603頃から、銅活字と木活字による活版印刷術は、慶長年間から1640年代の寛永年代に至るまでの半世紀にわたっ て隆盛を極めたとされています。  征夷大将軍になったばかりの徳川家康がとくに力を入れたのが、幕藩体制を強化するために必要な儒教を正式な学問にすることでした。『伏見版』『駿河版』といった印刷物は、配下の武士を学ばせる政策のもと、木活字、銅活字でつくられたのです。

ところが、活字の主流だった木活字は損傷が激しく使い勝手が悪かったため、17世紀のなかばには木版印刷に取って代わられました。そして明治初期に近代活字印刷が出現するまでの間、活字が用いられることはありませんでした。

その一方で、この時代の書物は「古活字版」と言われ、歴史上評価をされています。とくに、『伊勢物語』『徒然草』『方丈記』『百人一首』『新古今和歌集』『三十六歌仙』などで知られる平仮名交じりの国文書「嵯峨本」も、その美しさから、芸 術工芸品として現代でも高い評価を得ています。

この嵯峨本は、国文学の隆盛をうながし、江戸の文化への道を切り拓いたと言えるでしょう。

 

このコラムの参考文献、弊社代表取締役 玉原輝基の2作目

『仕事に役立つ、日本人のための情報の世界史』(かざひの文庫)

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