鎌倉時代の交通・通信事情
1185年から始まった鎌倉時代は、江戸時代まで続く武士の時代のはじまり でした。源頼朝が鎌倉の地に幕府を開き、東国の武士を束ねて武士による政治を 展開したのです。 でも、京都の朝廷が無力になったわけではなく、「公武二元支配」の体制だったと言えます。つまり、京都と鎌倉が政治の中心となり、2つの都を結ぶ交通・ 通信のネットワークが整備されるとともに、東国においても道路が整備されることになったのです。
鎌倉幕府は、東海道の駅路の法を定めました。伊豆から近江までの東海道沿線の荘園や御家人に対して、鎌倉から京都に向かう使者たちに馬や食事を提供するように求めたのです。
幕府が始まった当初はまだ体制が固まっていなかったので、荘園はこの負担に抵抗しました。鎌倉から京都に向かう使者たちに馬や食事を提供する役割については、もっぱら沿道の御家人や幕府近親者だけが果たしました。
鎌倉時代の駅制は古代のような強いシステムではなく、急場には間に合わない ことも多かったようです。
それでも鎌倉幕府の体制が固まるにつれ、京都には六波羅探題、九州には鎮西 奉行が置かれるなど、その支配地域は広がり、これらの地方行政機関と鎌倉との 通信需要がますます増加していきました。とくに朝廷の監視機関となった六波羅 探題と鎌倉との間の情報伝達は最重要であり、迅速さが求められました。つまり、 東海道の駅路の改善が差し迫った課題となったのです。 問題だったのは、「宿」が自然発生的に発達した集落だったために、距離間隔が不均等であったことです。そこで幕府は、宿が等間隔で位置するように必要な地に「新宿」を置くように進め、また宿の整備にも努めました。たとえば1251年には、宿の規模にかかわらずそれぞれの宿に馬2頭ずつ常備するよう な布令を発しています。
この時代、京都と鎌倉の間約480キロメートルを結ぶ飛脚を「六波羅飛脚」「鎌倉飛脚」と呼んでいました。これは早馬によるもので、古代駅路の法を踏襲したものと言えます。当時、京都と鎌倉の間を普通に旅すれば 日前後を要しましたが、 早馬による飛脚を使うと5日~7日程度で情報を伝えられたそうです。1192 年の後白河法皇の崩御の知らせは3日半、後鳥羽上皇が挙兵した知らせは4日で 鎌倉に届いたとの記録があります。
このコラムの参考文献、弊社代表取締役 玉原輝基の処女作『古代から現代までを読み解く 通信の日本史』(かざひの文庫)のリンクはこちら。