元寇によって進んだ道路整備
今回も、鎌倉時代のお話です。
「元寇」。歴史の授業で聞いたことがあるでしょう。当時東アジアと北アジアを支配していたモンゴル帝国(元朝)が、属国だった高麗と1274年と1281年の二度わたって日本に攻め込んできた、いわゆる「蒙古襲来」です。
1268年にモンゴル帝国のフビライ=ハンの書状を携えた使節が博多に来て、蒙古襲来の脅威が現実になったことで、鎌倉幕府の飛脚ネットワークが博多まで延長されました。
1274年の1回目の蒙古襲来(文永の役)では鎌倉に到着するまで 日を要した戦果の知らせが、1281年の弘安の役では 日で届いたそうです。文永の役以降、幕府が道路の整備に力を入れたことのあらわれでしょう。
それでも古代駅制による通信のスピードには及ばなかったのは、律令時代の駅制と比べて鎌倉時代の駅制が脆弱だったからです。
平安時代までの東国へのルートは、主に東山道が使われていました。でも鎌倉時代に入ると、東海道がそれに取って代わったのです。そして、東海道は武家政府と朝廷とを結ぶ大動脈に発展しました。
京都と鎌倉は宿によって結ばれ、鎌倉時代の交通路として、そして通信回路として役割を果たしました。そして、それは近世東海道の礎ともなったのです。
このコラムの参考文献、弊社代表取締役 玉原輝基の処女作『古代から現代までを読み解く 通信の日本史』(かざひの文庫)のリンクはこちら。