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江戸時代(2) 幕府公用の「継飛脚」

江戸時代の一大流通センター「三伝馬町」

江戸時代の通信システムと聞いてまず思い浮かぶのは、「飛脚」ではないでしょうか。

江戸の飛脚を大別すると、継飛脚・大名飛脚・町飛脚の3種類あります

継飛脚は、幕府公用の飛脚です。継飛脚を利用できるのは、老中や京都所司代、 大坂城代、駿府城代、勘定奉行、京都町奉行、道中奉行など、限られた役職の人 だけでした。その利用には老中の証文などが必要であるなど、ハードルが高かったのです。

継飛脚は、公的な書状だけではなく、「御用物」と呼ばれる公用の荷物も運びました。尾張の鮎ずし、三河の海鼠腸、大和の葛などの将軍への献上品も、継飛脚が江戸まで運んでいたようです。

江戸から各地へ送られる書状などの中継センターになったのは、幕府から伝馬 業務を委託された大伝馬町(いまの東京都中央区日本橋大伝馬町)と南伝馬町(いまの東京都中央区京橋)でした。

書状は江戸城の書記を担当する部署で作成されて、老中の証文が付いた漆塗りの「御状箱」に入れられて、大伝馬町と南伝馬町にあった役所に運ばれました。

さらにそこから江戸の四宿(品川、千住、板橋、内藤新宿)に届けられて、各街道の宿場をリレーして目的地に運ばれたのです。

ちなみに、江戸における中継センターにはもうひとつ小伝馬町(いまの東京都 中央区日本橋小伝馬町)もありましたが、これは江戸内の公的な書状を引き受けていました。

江戸から各地へ送られる書状などを扱っていた大伝馬町と南伝馬町は、1日〜15日と16日〜月末と交代で任務にあたっていました。任務のないときは民間営業を行っていたそうです。

このように、大伝馬町・南伝馬町・小伝馬町の三伝馬町は、18世紀のはじめには江戸の巨大な流通センターになっていたのです。

ちなみに、江戸に入ってくる公的な書状は、伝馬町を経由せず江戸四宿から直接江戸城へ届けられていたと言います。

継飛脚のスピードは、超特急便なら江戸~京都が2日半

継飛脚に求められたのは、何と言っても情報の速さでした。そのため、街道の通行にあたってはさまざまな特権が与えられていました

たとえば、

「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」

と詠われたほど、東海道屈指の難所と言われた大井川。普段は一定以上まで増水すると渡れませんでしたが、公用の書状を持った飛脚がこの川を越えるときは、もっと水位が増すまで川を渡してもらうことができました。

継飛脚のスピードは、江戸から京都までの500キロメートルを普通便で90時間(4日弱)、お急ぎ便で82時間(およそ3日半)、超特急便なら56時間から60時間(およそ2日半)だったという記録が残っています。

継飛脚の運営にかかった経費は、「継飛脚給米」という幕府から支給されるお米でした。でも、それだけでは賄えなかったので、各宿場が運営費用を持ち出していました。公的な書状を次の宿に送ることは宿場の義務だったので、仕方のない面もあったのでしょう。

とは言え、幕府からの財政支援がなければ宿場には大きな負担になります。そこで幕府は、緊急かつ機密の公文書を除き、公定料金で民間委託するようになったのです。宿場の財政を改善する効果はあったようで、この形で幕末まで継飛脚の運営が続くことになりました。

 

このコラムの参考文献、弊社代表取締役 玉原輝基の処女作『古代から現代までを読み解く 通信の日本史』(かざひの文庫)のリンクはこちら

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