長年にわたって失った「通信主権」
今回も、日本の電信の話です。それだけ、電信が通信に与えた影響が大きかったことを感じてもらえればと思います。
明治時代の日本は、前回お話しした「通信主権」を守る努力をしたにもかかわらず、1882年(明治15年)、日本は長きにわたって主権を失ってしまいます。
朝鮮の、現在のソウルで日本公使館が襲撃された「壬午事変」でアジアとのケーブル設置の必要性を強く感じつつも、技術力や資金の不足によって、長崎〜釜山 のケーブル設置と引き換えに、大北社に独占権を認める閣議決定をしたのです。
このとき、通信主権を重視していた寺島氏は駐米公使であり、日本にはいませんでした。この「国際通信独占権」の付与は、のちに日本が列強の仲間入りをするに際し、さまざまな足かせとなってしまうことになります。
岩倉使節団
ここで、明治初期にアメリカへ渡った岩倉使節団がアメリカから打った電報がどのように、どれくらいの期間をかけて東京に届いたのかをお話しします。
全権大使の岩倉具視を筆頭とし、木戸孝允、大久保利通、伊藤博文などのそうそうたるメンバーが、先進諸国の制度や文化の研究、不平等条約改正の予備交渉のために、1871年 月下旬に横浜港から出発しました。
そして1872年1月17日。使節団の最初の寄港地であるサンフランシスコか ら長崎県知事宛に売った英文の電報が長崎へ到着しました。長崎にはすでにグレートノーザン電信会社が海底ケーブルを陸揚げしていたので、到着したのは同社の 長崎局でした。
その内容をおおまかに翻訳すれば、
「日本大使が無事に到着したことを、政府にお知らせください」
といったものでした。実際に電報を打ったのは、1月16日でした。
当時はまだアメリカと日本を結ぶ太平洋ケーブルはありませんでした。
この電報は、アメリカ大陸を横断して大西洋ケーブルで英国に入り、ヨーロッパからアジアを経て、グレートノーザン電信会社が開通させたばかりの長崎へ届いたのです。
使節団が打った電報が3万キロ以上にも及ぶ距離を1日で渡ったのに対して、 この知らせが東京に届いたのは、その10日後の1月27日でした。
3万キロが1日、1000キロが10日という当時の現実
じつは当時、日本国内の電信回線は東京 横浜間と大阪 神戸間だけ(前述の 通り、東京 長崎間の電報サービスを開始したのは1873年4月)。長崎から 東京へ国際電報を届けたのは「飛脚」でした。
同年の1月 日に東京 長崎間で郵便制度が導入されていましたが、実態は江戸時代の飛脚を整備したものだったのです。
地球の4分の3周にあたる3万キロを渡る所要時間が1日、それに対して長崎から東京の約1000キロの情報伝達が 日。いまの基準で考えればおかしな話ではありますが、当時はそれが現実だったのです。
実際に電報がアメリカから東京(日本政府)へ届いた過程を概観することで、 当時の通信事情が何となくわかってきますね。 電信の整備を日本政府が急いだ理由も、感じていただけたのではないでしょうか。
このコラムの参考文献、弊社代表取締役 玉原輝基の処女作『古代から現代までを読み解く 通信の日本史』(かざひの文庫)のリンクはこちら。