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戦国の世の通信から、現代に生きることのありがたさを知る

戦国大名の「富国強兵」策で整備された伝馬制度

1467年から1477年までの「応仁の乱」で、戦国時代が始まりました。戦国の争乱のなかで、各地において実力のある支配者が台頭してきたのです。それが、戦国大名です。

戦国大名は、戦に勝ち抜いて領国を安定させなければ生き残れなかったため、富国強兵策をとりました。その一環として、伝馬制度を積極的に整備したのです。

本城と支城を結ぶ道路をつくり、要所に宿駅を設置し、兵の移動や軍需物資の運送のための交通システムを構築しました。

運送業務は領民に課せられて、安い賃料で人や馬の提供をさせました。この伝馬ルートが、情報伝達のルートにもなったのです。

危険がいっぱいの、戦国時代の使者

戦国時代に書状を目的地まで運んだのは、「使者」と「飛脚」でした。戦国時代の使者と飛脚は、ほかの時代と比べてもとても危険な役割だったと言えます。

使者の役割を務めたのは、戦国大名の家臣です。大きな勢力を持つ武将を自分たちの味方にする、援軍の派遣を依頼するなど、使者は極めて重要な使命を負っていました。いわゆる「ネゴシエーター」とも言える人たちです。使者は相当な手腕を持っていなければ務まらなかったので、交渉力に優れた家臣が使者に登用されました。

一方で、一刻も早く情報を送りたいときには、足の速い家臣が使者に選ばれました。

このように、使者は「交渉タイプ」と「俊足タイプ」に分けられていたのです。

いつの時代も、「適材適所」という考え方はあるのですね。  いわゆる山伏も、戦国大名の使者になっていました。それは、山伏には諸国往 来の自由があり、霊場がある険しい山道にも精通していた分、密使に最適だったからです。  多くの大名が対立関係にあったこの時代ですから、密書が奪われて使者が殺されてしまうこともあったようです。使者の道中は危険極まりないものだったと想像できます。

書状を目的地まで運んでいたのは使者と「飛脚」でしたが、飛脚は脚力とも呼ばれていて、書状を目的地までできるだけ早く届けることが任務でした。

飛脚の職に就いていたのは戦国大名の家臣ではなく、健脚の町人や僧侶でした。

戦国の争乱と飛脚

戦国の争乱が本格化すると、「早飛脚」という表現が書状によく出てきます。

早飛脚は、とくに足に自信のある人のなかから選ばれました。

継飛脚という言葉も見られるようになりました。これは、飛脚が交代しながら書状を目的地に運ぶ仕組みです。

当時の戦国大名は自己の通信ネットワークを確保するため、日頃から継飛脚の仕組みを維持していたようです。

織田信長は中部・近畿地方に統一政権を樹立し、関所を廃止して街道に並木を植えるなどして、交通路の整備を行いました

本能寺の変のあとに天下を統一した豊臣秀吉は、信長の政策を踏襲して一層の交通整備に努めました

交通インフラの整備が全国展開されるのは、次の江戸時代です。

戦国の通信事情から思うこと

有名な武将が活躍し、一見煌びやかにも思える戦国時代。その裏側では、まさに命がけの情報戦が行われていたのですね。

基本的に通信で命を落とすことのない時代に生きることのありがたさを感じられるのではないでしょうか。

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このコラムの参考文献、弊社代表取締役 玉原輝基の処女作

『古代から現代までを読み解く 通信の日本史』(かざひの文庫)

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