律令国家の駅制のベースになったのは、「七道」という幹線道路
今回も、日本の通信のお話です。
わたしたちが歴史の授業で聞いたことのある「大化の改新」(西暦645年)。
中大兄皇子が中臣鎌足とともに、当時権力を握っていた蘇我氏を滅ぼし、新政府をつくって国政改革に乗り出しました。この大化の改新以降、天皇を中心とする中央集権的な政治が進められていきます。
西暦646年に政府から出された「改新の詔(みことのり)」には、軍備や税制などとともに、いわゆる「駅伝制」を整備する旨が盛り込まれています。
駅伝制というのは、緊急連絡用の公文書を送るための「駅制」、公務のための出張に用いられた「伝制」を合わせた総称です。お正月のスポーツイベントなどでお馴染みの「駅伝」も、これが語源になっています。
もっとも、改新の詔では駅伝制を導入する方針が示されていただけで、実際には701年(大宝元年)の「大宝律令」において、「駅」を約16キロメートルごとに設置することなどの詳細な規定が定められたと言われています。
公文書を送るインフラであった駅制のベースになったのは、当時の都だった畿 内(いまの奈良、大阪、京都付近)から放射状に延びていた「七道」でした。 七道は、西南方向に向かう山陰道・山陽道・南海道、東北方向に向かう東海道・ 東山道・北陸道、そして当時の外交の玄関だった大宰府を中心に放射状に広がる 西海道の7つです。これらは道路の名前でもあり、この道路に沿った地域の名前でもありました。
この七道は当時の幹線道路と言えますが、その大きな特徴は、「とことん直線 にこだわった道路」ということでした。多少の谷になっているところは埋めて、低い丘は道路の通る部分を掘り下げて切り通しにした形跡も残っています。
七道は、国の一大事などを伝達するために馬を走らせた道路だったと言われています。当時の「首都圏」から各地域の役所を最短距離で結ぶために、直線にこだわったのでしょう。
このコラムの参考文献、弊社代表取締役 玉原輝基の処女作『古代から現代までを読み解く 通信の日本史』(かざひの文庫)のリンクはこちら。