日露戦争で活躍した、国産の無線通信
日本は、イギリスに発注をしていた軍艦のために、マルコーニの会社と電信機購入の交渉を始めました。ところが、マルコーニ側は購入代金に加えて高額な特許料を要求してきたのです。
かくして日本側は購入を断念することになり、無線電信機の独自開発を進めることになりました。1900年(明治33年)に無線の研究開発を行う委員会が海軍に設置され、研究を重ねた結果、1903年(明治36年)には370キロメートルの無線通信に成功するまでになりました。これが、「三六式無線電信機」と言われるものです。
明治36年だったことから、「三六式」と呼ばれています。
ロシアとの戦争が避けられない状況になった1903年(明治36年)の年末から、旗艦だった軍艦「三笠」を含む17隻に、無線電信機を設置する作業が始まりました。そのあと、見張り用の小型艦や陸地の見張所にも無線電信機が設置されたのです。
そして、日露戦争の勝敗を決定づけた、ロシアのバルチック艦隊との「日本海海戦」。これは、まさに日本の運命を分ける戦いでした。
もし1隻でも取り逃がすことがあれば、日本の通商路がロシア艦に破壊され、満州で奮闘していた日本陸軍は補給路を断たれてしまいます。それは日露戦争の敗戦を意味していたのです。
無線を皮切りに大勝利した日本海海戦
日本側は、バルチック艦隊がウラジオストックに入港する前に艦隊を捕捉し、1隻も取り逃がさずに攻撃しなければなりませんでした。バルチック艦隊がどのルートを通るのかわからないなか、対馬から南西の海域を碁盤の目のように無線電信機を積んだ非戦闘用艦73隻を配置しました。
1905年(明治38年)5月27日。信濃丸からの
「敵ノ艦隊見ユ」
という緊急無線を皮切りに、東郷平八郎は全艦に出動を命じたのです。
ちなみに、このときの
「本日天気晴朗ナレドモ波高シ」
という結びで終わる軍艦三笠から軍令部に送られた電文は、司馬遼太郎の『坂の上の雲』で有名な秋山真之が起草したと言われており、名文として語り継がれています。
そして軍艦三笠がバルチック艦隊を発見し、2日間にわたる戦闘が始まります。
戦果は、日本の大勝利に終わりました。
勝因として、秋山真之の卓越した作戦能力ももちろん挙げられますが、無線通信の活用も大きかったでしょう。日本海海戦での無線の使用は、日本の情報通信を語るうえで特筆すべき出来事だったと言えます。
戦争は好ましいものではありませんので、技術が平和に活用されることを願っています。
このコラムの参考文献、弊社代表取締役 玉原輝基の処女作『古代から現代までを読み解く 通信の日本史』(かざひの文庫)のリンクはこちら。