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近代郵便制度のスタート

「富国強兵」のための施策のひとつとなった、通信の整備

幕末、日本には欧米による植民地化の危機が迫っていました。植民地化を回避するためには、幕府と各藩を統合し、欧米のような中央集権国家を設立する必要 があったのです。

それと同時に、欧米のように市場経済を発展させて、「富国強兵」を実現しな ければなりませんでした。

ところが、旧来の通信方法ではその実現はおぼつかないということで、明治政府は郵便、電信、無線、電話という近代的な通信方法の普及に力を入れていくことになったのです。

ここではまず、近代郵便制度のスタートについてお話しします。

幕末の混乱による飛脚制度の破綻から、新式郵便が検討された

日本における近代郵便は、1871年(明治4年)の4月に前島密の立案によって実現された東京~大阪間の「新式郵便」によって始まりました。翌1872年(明治5年)には全国でこの郵便制度が実施され、1873年(明治6年)には全国 均一料金制が導入されて、郵便事業の骨格が整えられていきます。

江戸時代の通信は、すでにお話しした通り「飛脚」によるものでした。大別すると、幕府の公用通信を扱っていた継飛脚、大名の書状を運んだ大名飛脚、商人などの民間の書状を運んだ町飛脚です。飛脚は、「宿駅制度」によって維持されてきました。

江戸幕府の崩壊後、宿駅制度は新政府に引き継がれ、明治維新後もしばらくは宿駅制度が継続されていたと言います。歴史の学習で、「明治になって郵便制度 が創設された」とだけ学んだ人も多いでしょうから、これは意外と知られていないことかもしれませんね。

幕末から明治維新にかけて、交通通信事情は混乱していました。そもそも宿駅制度は、民衆の負担によって支えられていた面が大きかったのです。

ところが、物流が盛んになると、宿駅制度では書状などの運搬を捌ききれなくなりました。幕末から明治にかけては混乱の時代。宿駅の機能を強化するのも難しかったため、キャパシティを超える輸送負担に耐えられなくなり、物資などが停滞する事態に陥ったのです。これは、まだ弱体だった明治新政府には手に負えないところでした。

とは言え、戊辰戦争などの内戦のなかで新政府は軍事や行政に関する通信手段を確保しなければならなかったため、宿駅制度を維持するべく、さまざまな改善策を講じたのです。でも、なかなか抜本的な改善には至りませんでした。

そして、「郵便の父」と呼ばれる前島密が新式郵便の創設を建議することになりました。

このコラムの参考文献、弊社代表取締役 玉原輝基の処女作『古代から現代までを読み解く 通信の日本史』(かざひの文庫)のリンクはこちら

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